いばらの冠
(sample)
「あれ?先生……いたんだ」
 もしかしたら、今日はいないのではないかと香穂子は思っていた。
ノックをしても返事がないのはいつものことだが、何しろ明日は卒業式。前日の準備やらなにやらで、教師達は何かと忙しいだろう。現に、香穂子の担任も、明日の準備だけでなく、未だ進路の決まらない生徒の相談があるとかで、教室はおろか、今日は一日職員室ですらつかまらなかった。
なのに、この人は……
「なんだよ日野、来たそうそう、ずいぶんなご挨拶だな」
「だって先生たち、今日はみんな忙しくしてるから、もしかしたら留守かと思って……」
「ああ、卒業式前だからなぁ。でも、ほら俺は、担任もないし、気楽な音楽教師だからさ」
金澤はそう言いながら、のんきな顔で、ぷかりと煙をふかす。
――卒業式前だからなぁ……って、まるで他人事のように言ってるけど、私も明日の卒業生の一人なんだけどなぁ。
香穂子の中に、小さな悪戯心が芽生える。
「でも、さっき、森田先生が、金澤先生のこと探してましたよ。なんだかすごく急いでたみたいだけど。多分……何かお願いしたいんじゃないのかなぁ」
森田というのは、学年主任の教師の名だった。
「お、おい、それまじか?まいったなぁ、俺はああいう式とか合わないって何度も言ってるのになぁ」
 合うとか合わないとかの問題ではないと香穂子は思うが、あえてそこには突っ込まず、すました顔で黙っていた。
「なあ、お前さん、どこで会ったんだ?普通科か?それとも、もうこっちまで来ちゃってんのか?なあ、おい、面倒なこと持ってくるんじゃないだろうな」
 何を慌てているんだろうか、この人は。
そう思ったら、可笑しくて仕方がない。すました顔をしているのも限界で、香穂子は、思わずプっと吹き出してしまった。
「なっ、なんだ?何がおかしいんだ?」
「だって、先生がそんなに慌てる姿見たことないもん」
「んん?」
 金澤は、煙草を灰皿に押し付けると、じいっと香穂子を見て、訝しげに片方の眉を吊り上げた。
「ふうん、そういうことか」
「なっ、なんですか」
「いやぁ、お前さんもずいぶんと悪い女だと思ってな」
 にいっと笑いながら、香穂子へとにじり寄る金澤に対して、香穂子はといえば、まずい!といった表情で、一歩ずつ後ろへ下がってゆく。
「きょ、教師が何言ってるんですか!」
「なあ……今の嘘だろ?」
「あっ」
 香穂子の背中がグランドピアノへぶつかったところで、金澤の目が真剣になった。
「せんせっ……」
 香穂子に焦点を合わすかのように、その目が細まってゆく。
「嘘なんだろ?」
 ―― ああ、これだ。
 金澤のこの目に弱い。瞳そのものは、こんなに優しい色をしているくせに、その突き刺すような視線は、香穂子に罠をしかけてくるかのように、危険をはらんでいる。
 そうだ、嘘だ。森田先生に会ったなんて、そんなのは嘘だ。だって考えてもみれば、もしもこの部屋へ来る途中、生徒ならまだしも先生なんかに会ったならば、どう言い訳すればいい? 
この部屋に来て、こうして金澤と二人になることは決して誰にも言わない、教えてはならない。あの日、香穂子は自分に課した。誰にも知られてはならないと思ったと同時に、誰にも知られたくないと思った。……金澤がどう思っているかはわからないが、香穂子はこの時間を誰にも知られたくなかった。
――先生はどう思ってるかわからないけど……
「お前さん、案外しぶといんだな」
 楽しそうに、迫ってくる金澤は、自分が今どんな顔をして香穂子を見つめているかなど知りはしない。
「先生……」
「おーい、日野。早いとこホントのこと言っちまえって」
金澤の視線を避けるように、香穂子は一歩後ろへ下がろうとしたが、その背中は既にピアノにくっついていて、もう逃げ場はない。
 金澤の持つ匂いが鼻先をくすぐり、その体温がすぐ近くで感じられる。
香穂子は、ぎゅっと目を閉じた。
 駄目だ。もう、白状してしまおうか……
香穂子がそう思った時、ふうーっと大きなため息が聞こえて、金澤の身体が香穂子から離れた。
「え? せ、先生?」
「なあ、お前さん、頼むからそんなふうに無防備に目なんか閉じるなよ」
「……」
「フライングしたくなるだろ?」
「フライング?」
 まいったな、と、頭を掻きながら、金澤は古いソファへと身体を投げ出した。
「ああ、こんなんでも一応は教師だからな」
「どういう意味ですか?」
 香穂子の質問に、金澤は一瞬眉をしかめたが、すぐに真っ直ぐに香穂子を見つめると、言った。
「今日はまだ、卒業式前日。お前が卒業するのは、明日なんだよ、日野」
 明日までは何があろうと俺は教師なんだよ、と香穂子に言うと、金澤はまたいつもの飄々とした顔に戻った。