見えない場所で (金澤×日野/無印設定) |
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予定では、こんなはずではなかった。 先生の家に行って、料理を作って、二人で食べて、ちょっといいムードになって……その後のことまでも、実は勝手に想像したりもしていた。もちろん先生には、絶対に知られたくはないけど。 そうやって、好きな人の記念日を過ごせたらいいのになぁと、私は時々にんまりしながら、あれこれと計画を立てていた。 それなのに。そのはずだったのに。 何故か今、私はひどく窮屈な場所で、先生と手を繋いでいる…… 好きな人の誕生日に手料理をご馳走したいっていうのは、誰でも一度は憧れるシチュエーションなのではないだろうか?彼の家のキッチンでパパっと料理を作れたら、なんだかそれだけで女としてのスキルが高いような気がする。「お、意外とうまいんだな」「そんなぁ、こんなの手抜き料理ですよう」てな感じで会話もはずんだりして。 もう長い付き合いのカップルにとっては誕生日だから手料理だなんて、そんなことを、いちいちこだわったりしないのかもしれない。そもそも、今どきそういう考えは古いのかもしれないけど。でも……少なくとも、この日をきっかけに彼の家にお邪魔できるような仲になりたい、なあんて考えている私にとっては、それはまるで夢のような、ものすごく重要なイベントなのだ。 それなのに…… 「却下」 私の好きな人は、たった一言で私の夢を壊したのだった。 私がこの計画を立てたのは、バレンタインデーが終わってすぐのこと。 あの日渡したチョコは、何度も失敗して作り上げた特製のトリュフチョコレート。ほんの少しだけ加えたスパイスがアクセントになって我ながら美味しいと思える出来だった。放課後の音楽準備室でそれを渡した時、先生はその場で箱のリボンをほどき、ひとつ摘んで口に入れると「美味いな」と言って、すぐに二つめに手を伸ばした。 あの日は確か、いざチョコを渡すという時になって、少し躊躇してしまったはずだ。 普段、甘い菓子類を食べている姿を一度も見たことがなかったと、渡す寸前になって思い出した。それで、もしかして苦手なのかもしれないと不安になったからだ。そして、それでもきっと何も言わずに食べてくれるだろう先生を思い、無理をさせてしまうかもと、内心ではヒヤヒヤしながら渡したのだ。そんな思いのこもったチョコだったから、「もう一つ」と手が伸びた瞬間の、飛び上がりたくなるような嬉しさは今でもよく覚えている。 そう、とっても嬉しかった。 だから、『今度は先生の家で』という欲が芽生えてしまったのだと思う。 私は少し浮かれていて、自分と先生との関係を忘れていた。いや、無意識のうちに忘れたフリをしていた。けれど、一方の先生はといえば、まったく忘れてなんていなかった。まあ、あたりまえのことだけど。その証拠に、 「先生のお誕生日なんですけど、その日は先生の家……」 「日野」 先生は、私が全て言い終わらないうちに私の名を呼んだ。その時の表情はなんだか少し辛そうで、一瞬ドキっとした。 「それは却下だな」 「でも」 冷静に言われると、なんだか自分がずいぶんとわがままを言っているように思えてくる。先生を困らせたいわけじゃない。ただ他に言葉が出なかった。その証拠に「でも」という言葉に続きはない。 「なんつーか、その、やっぱそりゃあまずいだろ」 「でも」 無理に笑っているような先生を相手に、私はまた同じ言葉を繰り返す。 「すまんな、わかってくれよ」 「でも」 また言ってしまった。先生の気持ちはわかっている。わかっているから、だから私には本当は言いたいことなんかないのに。 「でも……」 そう呟いたきり、下を向いてしまった私に、先生は少し笑うと、私と同じように「でも」と言った。 「え?」 「でも、お前さんの気持ちは嬉しいよ」 そう言って先生は私の唇に人差し指で触れた。 「あ……」 ズルイ。 ……先生はズルイ。 私が固まってしまうことを知っていて、いつだってそういうことをする。 だったらもう、私は頷くしかないじゃない。 「よし、いい子だな日野は」 かくして私は黙ったまま深く頷いたのだった。 ◆ そして迎えた今日、3月1日。 先生の誕生日。結局、私はどうしたのかと言えば…… プレゼントの基本は相手の好きなものという原則は知ってはいたが、今回はそれを無視して、独断で選ばせてもらった。用意したプレゼントは、大人っぽい色のパスケース。それに添えるのは、手作りのクッキーだ。パスケースの方は、私とデザインがお揃いの色違い。クッキーはラングドシャ……に挑戦する勇気はもちろんなくて、ごくごく普通のバタークッキーを焼いたのだった。 バレンタインの時に続いて今回までも、手作りのお菓子にこだわったのは、先生に「良く出来てる」「美味い」と、もう一度誉めてもらいたかったからだ。 前の晩に準備を終わらせ、早朝から起き出してオーブンで焼いたクッキーは午後になってもまだほんのり暖かい。大事に胸に抱いた紙袋からは香ばしいバターの良い香りが立ち上ってきそうだ。 ――また美味しいって言ってもらえるかな…… 晴れがましさに浮かれる気持ちと少しの緊張。そんな感情が心から溢れ出そうで、私は準備室に続く廊下を足早に歩いた。 コンコンと二回のノックの後に、もう一度ノック。 「あれ?」 返事はなかった。 いつもならば、おお、とか、開いてるぞーというような、呑気な声がかえってくるのに。今日はいつまでたっても先生の声は聞こえない。 いないのかなぁ…… 「失礼します」 我ながら律儀な性格だと思いつつ、一礼してからそっとドアをあけた。 「先……生?」 予想通り、呼びかけた声に返事はなかった。おそるおそるドアの隙間から顔を突っ込むと、そこには先生の姿はもちろんのこと、指の間から立ち上る白い煙もない。 「なあんだ(やっぱりいないのか)」 ほっとしたような残念なような気持ちになった私は、そのまま部屋の中へと入っていった。 先生がいないだけでずいぶんと部屋の雰囲気が変わるものだと思う。 なんだかつまらないな。 ふと手元を見ると、プレゼントを入れた紙袋の淵につけたリボンがヨレヨレになっている。どうやら強く握っていたらしい。リボンの下には、『DEAR 金澤紘人』と書いたカードをつけたが、これも知らぬうちに何度も指でこすっていたようで、触っていたところだけ薄汚れてしまったようにも見えた。 「はあ……」 口をへの字に曲げた時に、自然とため息が出た。 先生、すぐに戻ってくるかな。 特に意味もなく辺りを見回すと、本や楽譜が積み上げられた大きな机が目に入った。先生がいつも使っている机だ。タワーのような書類に混じって小さなビルや家屋が立ち並ぶように、灰皿やコーヒーカップが置かれている。私はこれ以上、紙袋を汚さないうちに先生の机の上に置くことにした。申し訳ないけどカップやペン類にはこの土地から立ち退いてもらおう。それらを端っこにずらしてできた空き地に花柄の紙袋をぽんと置いた。 さて、これからどうしようか、そう思った瞬間、バタバタと騒々しい足音が廊下から聞こえてきた。もしかしてと、ドアの方に目をやると、見慣れた白衣の裾が見えた。思わず「先生」と声をかけようとした、その時、私は先生の声を聞いた。 「多分、あったはずだ。今さがしてやるよ」 明らかに私に言った言葉ではない。かといって独り言でもない。だって、先生の今の言葉には、ちゃんと返事がついていたのだから。それも複数の。 これはまずい! 後から考えれば、別に生徒が一人いようと誰も疑ったりしないだろうに、その時の私は他の生徒たちに見られたらまずいと焦ってしまった。キーっと音がしてドアが全部開く前に、この場から消えなければ。 とにかく、日野香穂子は音楽準備室にいてはいけないのだ! 思わず机の下にもぐり、ふうと息をつく。 (ああ、間に合った) 部屋に人が入ってくる気配と足音、それから「へえ」とか「すごい楽譜」などという声が聞こえた。机の背板で向こうの様子はわからないが、多分、先生のほかに4〜5人はいそうな感じだ。ありがたいことに皆、机とは反対側にある楽譜の詰まった書棚の方に固まっているようだ。 声はしばらく続いているようだ。足音も多少聞こえる。だが、この古くて頑丈な机はそれらのほとんどをシャットアウトしてくれた。おかげで室内の様子がつかめず、目の前も闇のままだ。 まだいるのだろうか。 せっかくプレゼント渡しに来たのにと、残念に思う。 (プレゼント?) そうだ。机の上に置きっぱなし。花柄の紙袋にご丁寧にリボンまでついている。これ、見られたら……まずい?大丈夫?笑われる?ど、どうしよう! (取る……しかないよね) 皆の目に触れる前に、私は紙袋を取り返すことにした。だいたいの場所は覚えている。確か、カップをどけて、その土地を譲ってもらって……机の下から腕を伸ばし、指先で机の上を探る。まずは淵にそって探ってゆき、何もぶつからなければ、もう一歩内側へ。そろそろと音を立てないように…… ガサッという音がして、指先に乾いた感触が走った。 (あ、これだ!) (あれ?) (え?なんで?) 指を伸ばしても紙袋は掴めない。仕方なくもう少し伸ばすとまたその指先に紙袋が触れる。まるで自ら遠くへと動かしてしまっているようだ。 「泥棒」 (!!!!) 思わず声を出しそうになった。 だって、今度こそと伸ばした手をギュっと握られたのだから。 「取るなよ」 「え!」 「これ、俺んだろ?」 握られたままの手の先を見ると、そこには先生がいた。机の前にしゃがみこみ、私を見て呑気に笑っているではないか。 (な、何してるんですか!) 私は小声で、でも先生にだけ伝わるように言った。なのに先生は、 「それはこっちのセリフだぞ」 (しーっ!しーっ!) もう声が大きいですよう!聞こえたらどうするんですかと、先生を睨みつけると、いたって涼しい顔で、「そりゃあお前さんは恥ずかしいだろうなぁ」などと他人事のように言う。 (え、私?) 「おい、そろそろ気付いてくれよ、日野さんよ」 「気付くって?気付かれたらまずいって先生が、誰にも内緒って、先生が言って……」 そうだ。私の恋は誰にも内緒。先生の恋も誰にも内緒。時々忘れそうになるけど、確かにそういう約束で、この人を好きになって、この人を待つことを決めたのだから。 「うん、まあ、なんだ」 そりゃ、そうなんだが、と先生は咳払いをしながら、鼻の頭を親指で軽く擦った。 「確かに、お前さんの言うとおりだ。けどな、みんなもう出てったからもうこの部屋には俺しかいない」 「あ……」 視線は遮られており見えないが、確かにさっきから人の気配は消えていた。 「それにだ」 先生は私の顔を見つめて続けた。 「この紙袋には俺の名前が書いてある。だから俺んだろ?」 じっと目を見て言われると、それだけで言葉に詰まる。恥ずかしくて手を引こうとしたら、かえって強く握られた。 「俺のだよな?」 高校生と三十路の教師。いい大人が二人して机の下で見つめ合っている様は、さぞかし滑稽だろう。想像すると情けない気分にすらなってくる。けれど、私は笑うことはなかった。私は私を見る先生の瞳だけを見ていたからだ。目がはなせなかったからだ。そして思わず聞きたくなった言葉をぐっと呑み込んだ。 ――先生、それはプレゼントのことですか、それとも……私がですか? 「お前さんだよ」 「え、今……」 ねえ、先生、今なんて言ったんですか?私、私、よく聞こえなかった。 「先生」 もう一度言ってください。そう言おうとしたのに。 「悪い。失言だ」 そう言って人差し指で私の唇に触れた。 ズルイ。 ……先生はズルイ。 私はまた固まってしまった。どこを見ていいかわからず、机の内側の隅っこを見つめた。 「図々しいですよ、先生」 「ああ、そうだな」 先生の香りが近づいてくる。頬に先生の前髪が触れた。耳のふちを指先で掴まれる。 「先生」 「しーっ、黙って」 「でも」 「誰か来るかもしれないだろ」 小さな声が耳朶の傍で聞こえた。 多分もうここには誰もこない。 誰もこないけれど、来るかもしれないと先生が言うならきっとそうなのだ。 机の下の窮屈な空間で、先生の腕に閉じ込められ、私は更に身動きがとれなくなる。 そして、私が目を閉じて、完全な闇になるまで、多分あと2秒。 ――fin |
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※画像:あんずいろapricot×color様 |