離さないで……



 あの不思議なコンクールがなかったら、自分はどんな人生を送っていただろう?
 香穂子は時々そんなことを考える。
 廊下ですれ違うたびに目が合ってしまう。そんな男子が確かいたはずだ。想像は時に楽しい。もしかしたらその彼を意識して、彼に恋をして……付き合っていたかもしれないと、想像の世界は勝手に広がってゆく。きっと時々は喧嘩をしてみたり、言いたいことをぽんぽんぶつけて、後で反省をしてみたり。
「ごめんね」
 なあんて。
 いつもこうして謝ったところで、香穂子の想像は終わる。



 自分がいくら想像したところで、今が変わるわけではない。それはちゃんとわかっている。
 コンクールは確かに行われ、また無事に終わり、それからもういくつかの季節が巡ったのだ。春夏秋冬、また春が咲き、今は夏が、その幕を上げようと向こうからやってきている。見上げればそこはいつも爽やかな青空だ。うんざりするくらいの空の色が眩しい。
 けれど、このドアの中に一歩踏み込めば、そこはいつだってどんよりとした曇り空が広がっている。まさか部屋の中に?そうまさか、なんて。
 曇っているのは香穂子の気持ちの中だけだった。
 その日、香穂子は少し緊張しながら音楽準備室のドアをノックした。
 もう何度も何度も訪れた部屋だというのに、ドアの取っ手にかかる自分の指が僅かに震えているのが見えて、香穂子はなんだか不思議な気分になった。
 特別な用事はなくてもここに来てもいいのだと、金澤からそう言われたのがこの部屋だ。はじめて名前を呼び、指をつなぎ、唇を合わせたのも、この部屋だ。
 目を閉じ、部屋の様子を頭の中に思い描いてみる。ぱっと目を開けると、きっとそこには思ったとおりの景色が広がっているはず。
 重たいドアを開けて、一番最初に見えるのが真正面にある窓。そこにはいつも中途半端にカーテンがひかれており、裾のほうが少しほつれていることを知っている。そして、叩けば埃が舞いそうな古いソファーの上には、煙草の焼け焦げのあるクッションが置いてあり、肘掛との隙間に小さなボタンが挟まったままになっていることも知っている。
 それは確か、深くなってゆく金澤の口づけに、身体がふわりと浮き、次の瞬間には落ちていくような感覚を覚えた時、焦った香穂子がソファーに手をついた時に指先に感じたものだった。あ、ボタンだ、と頭の片隅で思ったところで、その日の準備室での香穂子の記憶は終わっている。

 それらは全て放課後の出来事だ。
 時間が違うというだけで、この部屋が学院内にあるにもかかわらず、普段の学校生活とは隔離された特別な場所にいるような感覚すら覚えた。
 それに対して今はまだ朝。
 始業前の慌ただしい時間である。
 部屋の主である金澤は既に学院に来てはいるが、今は職員室にいる時間だろう。現に香穂子は職員室のある校舎へと金澤が歩いてゆくのを見たばかりだった。
 だから今、目の前にある扉の中には誰もいないことを香穂子は知っている。それでもなお、「失礼します!」と、大げさな掛け声をかけてしまうのは、香穂子の心の隅っこに、小さいけれど確かな罪悪感があるからだった。

 準備室に入った香穂子は、まっすぐ金澤の机へと向かった。ただ単純かつ乱雑に物が積み上げられているだけに見える机の上は、下手に手を出すと雪崩のような大事故を起こしかねない。
香穂子は、その危なげな山をしばらく見つめてから、少しも迷うことなく一通の手紙へと手を伸ばした。
 すぐに返すから……。
 そんな言い訳めいた言葉が脳裏を掠める頃には、手紙を掴んだ香穂子の手は鞄の中にあった。他の荷物で折れたりしないように、持っていたファイルへと挟む。鞄から手を放した途端に香穂子は、ほうっと息を吐いた。知らないうちに息をつめていたらしい。
 とりあえず、これで目的は達成したことになる。
 そうとなれば一秒でも早く、この場から立ち去りたい。
 入ってきたドアを出ようとしたその時、そんな香穂子の焦る気持ちを見透かしたかのように、ポケットに入れたままだった携帯電話が音を立てた。
 同じフレーズを三度繰り返す、この短いメロディーは金澤からのメール着信音だった。慣れた手つきでボタンを操作し、香穂子は画面をひと目みると、すぐに電話を折りたたみ、またポケットへと戻した。
「そっか、今日金曜だったっけ」
 香穂子は呟くと、今度こそドアを開け、準備室を後にした。
 


***



 週末はたいてい金澤の部屋で過ごすようになっている。
 恋人として付き合い始めの頃は、外食をしてみたこともあったが、狭い街の中ではどこに行っても視線が気になり落ち着かない。学院近くでもあるまいし、気にしすぎだとお互いわかってはいるが、万が一が命取りになる関係だ。それに、びくびくしながら食事をするのは少しも楽しくなかった。なにより、身体にだって悪そうだ。
 結局、香穂子が金澤の部屋へ行くようになるまで、さほど時間はかからなかった。思えば、肌を合わせた感触を知ったのも同時期だった。
 さすがに制服のままというのも気がひけるので、香穂子は一度、家に帰って私服に着替える。そして、改めて金澤のアパートの近くで二人は待ち合わせる。
 そのへんで適当に夕飯の材料や金澤の飲むアルコールを買い込み、それから本屋やコンビニを冷やかした後は、ほとんど外に出ることもない。くだらない話をして、笑いながら料理を作り、それを食べて、テレビを見て……そんなデートとも呼べないデートを続けている。
 今日も、だいたい同じように時間が進んでいる。
 ただ少しだけ違うのは、今日は待ち合わせの時間が少し遅かったため、食事をする時についていたテレビ番組がいつもと違うことくらい。その程度のことなのだ。
 今朝、香穂子が音楽準備室で読んだ金澤からのメールには、急に会議が入ったから遅くなると書かれていた。その通り、いつもよりも一時間ほど遅い待ち合わせになったわけだ。
 こうしたことは初めてではない。会議……多分、職員会議か何かだとは思うが、詳しい話は聞いたことがなかった。

 恋人とはいえ、教師と生徒という関係は、まだしばらくは変わらない。誰にも知られてはならない関係ということは、互いに十分承知の上で、こうなった。だから不満はないはず。
 「不満なんてないよ」……そうはっきり言えたらいいのにな、というのが香穂子の本音だ。

 わかってはいても、時々ちょっと寂しくなったりするのはどうしてだろう。
 こんなに近くにいるのにね。
 ねえ先生、この頃、何考えてるの?
 


***



 夕食の後片付けも終わり、金澤に付き合って見ていたナイター中継もさっき終わった。金澤が名前を呼んでいた投手がヒーローインタビューを受けていたので、きっと贔屓チームが勝ったのだろう。意味もわからずぼんやりと画面を見ていると、カチっという音とともに突然画面は真っ暗になった。振り返ると、金澤の手にはリモコンが握られていた。
 いきなり静かになる部屋で、なんとなく間が持たない。
 こういう時に何か気のきいたことでも言えると、私も少しは大人の女になれるのかな。
 香穂子がそんなことを考えていることを知ってか知らずか、金澤は壁にもたれていた身体を起こすと、「こっちにおいで」と、助けを出すかのように、香穂子に向けて大きな手を差し出してきた。
 香穂子が、そろそろと膝伝いに近づくと、すぐに腰に手が回され、膝の上に抱えあげられる。
「よっこらしょ」
 ふざけた口調と裏腹に、目の前に見えるのは熱を持った瞳だ。けれど、最近この金澤の瞳には、香穂子にはわからない感情も入り混じっているようにも見えた。いや、むしろ、香穂子が知ることを拒んでいるようにすら思える時がある。

 こういう関係になる前、金澤はやたらと将来に対する漠然とした不安や、約束できない未来、それから大きすぎる年齢差を理由に、ずっと長いこと香穂子の気持ちを受け入れようとしなかった。それでも、最終的にこうして自分を受け入れてくれたのは、どういう理由があったのだろう?
香穂子はただ嬉しくて、少しの疑問も持たずに金澤の胸に飛び込んだが、その時から既に気持ちはすれ違っていたのかもしれない。

「先生、重くない?」
 この言葉は少し意味深だ。膝の上で抱かれている自分の体重を気にしているという意味と、もうひとつ、香穂子自身の存在についてはどうなのか?という意味を込めてみた。
 後者の意味に気が付かない男は鈍感だと思うが、一方で、そんなカップルは幸せだとも思う。金澤はどうだろうか?瞳からは何も読み取れない。
「……たいしたことないさ」
「少しは重いんだ」
 金澤の言葉に何か意味があるのかわからなかくて、妙に拗ねたような返事をしてしまった。金澤は「へりくつばっか言うんだな」と笑ったが、香穂子はもう何も言わなかった。
 もう少し歳を取ったら自分にもわかるのだろうか?
 でも、その時にはきっと金澤はまた少し上を行っているのだと思うと、香穂子はもう何も考えたくなかった。抱きしめられた胸に顔をぎゅっと押し付けた。



***



「あっ……――っ」
 香穂子は叫びそうになるのを咄嗟に堪えた。
金澤に何度抱かれても、自分の声の甘さに慣れることができない。
「んんっ……」
「香穂子、……こら」
 声を出すまいとくちびるを噛み締めると、それを察した金澤は、くすりと笑い、けれど貪るように口づけてきた。
「……ん、」
 おかしくなるぐらいに、金澤のくちづけが深い。
 熱くざらりとした舌が口の端を舐め、上顎までも探ってくる。
 息苦しいほどに顔を上に向かせられ、舌を絡めさせ続けられると、身体の芯が麻痺してゆくのが自分でもわかった。
 どこもかしこもおかしくなりそうだ。
 金澤の全てが熱く、金澤の全てに感じる。肌に触れる金澤の吐息にすら、声を漏らしてしまいそうだった。
 ブラウスのボタンが、ひとつ、またひとつとはずされてゆく。わざとゆっくりと脱がすのは金澤の好みでもあり、それに香穂子が感じてゆくことも知っているからだ。
「……白いな」
 少しも焼けないのか?そう問いかけながら、白いと言った胸元に口づけを繰り返し、器用な指先が軽く素肌を摘むたび、ちりちりした感触に襲われた。
 こんなふうに肌を見せるだけで感じてしまうのは、相手が金澤だからだ。他のひとと、こういうことをしたことがないけど、香穂子はそう思った。
そう思うと余計に感じて、知らず知らずのうちに身を捩りながら、金澤の両肩を思い切り掴み、結果として胸元を金澤に押し付ける形になってしまう。
「いい眺めだよ」
 金澤の瞳は遠慮という言葉を知らない。それは指もまた同じ。
「やっ、んっ……」
 硬く尖る乳首をつままれ、優しく押しつぶされる。それを繰り返されるたびに息が詰まった。
「っ、んんっ……」
「すごく硬くなってるけど……はは、苦しそうだな。そうだな、じゃあ、ちょっと変えるか」
 やっと指が離れたかと思ったら、今度は尖りを舌先でつつかれた。
「あんっ、あ、ああっ」
 金澤の舌は遠慮なしに乳首を絡め取り、音を立てて舐ってくる。色味を増した乳首を甘咬みされて、身体が弓なりにそりかえった。よじらせた背中の下で乱れていくシーツを掴み、大きく息を吸い込んだ。
 強い刺激が次から次へと襲ってきて、香穂子はもう抑えることができずに声をあげた。まだブラウスさえ全部脱いでいないというのに、こんなにも感じてしまうことに背筋がぞくぞくした。
「お前さんは、ほんとにここが弱いんだな」
 金澤が言葉を発するたび、敏感な場所に震えが走る。
「……だめ、違うっ……ああっ」
「嘘つくなよ」
 喉の奥で笑う金澤は乳首を吸い上げながら、視線を香穂子に合わせた。
「素直になれよ、日野」
「せ、先生は……?」
「え……」
 自分でも何が聞きたかったのかわからない。気がつけば、先生は?と聞き返していた。
 香穂子の問いかけに何を感じたのか、金澤はじっと香穂子の瞳を見つめたが、結局何も答えずに、ぎゅっと唇を噛んだ。そして、無言で覆い被さると、体重をかけて香穂子の身体をベッドに沈めた。
 香穂子の閉じた両脚の間を長い指で割り入ってゆく。
 それは痛いくらいに強引なのに、香穂子の身体は甘い刺激として感じていた。内腿に指を走らせ、膝の裏側から、そして熱の集まる中心へとゆっくりと何度も辿っていく。その都度、反射的に閉じようする香穂子の脚を金澤は許さず、それよりも早く、再び手で軽く押し開いた。
「あ、――ああ……っ」 
 開かされた両脚の奥、既に濡れて熟したところを撫でられ、香穂子はきつく瞼を閉じて金澤にしがみついた。
「っ、すごいな」 
 耳朶を咬まれ、指がさらに奥へと潜り込む。とろりした蜜を絡ませた指は、何度も敏感な場所を探ってゆく。
「香穂子」
 金澤が名前を呼びながら身体を重ねてきた瞬間、香穂子は声を出すよりも先に、金澤に抱きついた。
金澤自身によってゆっくりと押し広げられていく香穂子の身体。まるで金澤で一杯になってしまったような感覚すらある。 
 金澤が押し挿ってくる瞬間、そして満たされる時、ほんのわずかな痛みを感じるのだが、その痛みはすぐに息苦しいほどの快感に変わる。
 背中に回された手が熱くて痛い。絡め合っている足も手も、なにもかも。
「や、っ……――あっ……、ぁ、いやあっ……!」
 最奥を突かれ、頭を左右に振っては、金澤の刻むリズムに合わせるように声をあげる。
「やっ、やっ」
「ほんとかぁ?」
 からかうように言うと、金澤は自身をぎりぎりまで引き抜いた。その途端に空虚になってしまった身体がうねり、香穂子は求めるような視線を金澤に送る。
「香穂子、ほんとはどうして欲しい?言えよ」
 多分、金澤は香穂子がちゃんと言うまで動かないだろう。金澤がいない身体は寂しい。心も寂しい。
「先生もっと……」
「もっと何だ?」
「抱いて……ほしい」
「ああ、もっと抱いてやるよ」
 一瞬くすっと笑ったが、すぐに真剣な瞳に戻ると、金澤は香穂子の身体を一気に貫いた。両脚を抱え直し、更に深く貫く。全身を突き抜けるような快感、体重をかけられる圧迫感に香穂子は金澤の名を叫び続けた。
「ああっ、あん、先生、先生、せんせいっ……」
「香穂子っ」


――離さないで……



***
 



ああ目が覚めてしまった。

 香穂子はゆっくりと瞬きをすると、隣でまだ寝息を立てている金澤の顔を見つめた。
 ――離さないで……
 叫ぶような自分の声はまだ耳に残っていた。けれど金澤が何と答えたのかは覚えていない。何も答えなかったのかもしれない。その瞬間、驚くほどの力で抱きしめられたが、それが金澤の答えだったとでもいうのだろうか。そうだとしても香穂子にはそれが何を意味するのかわからなかった。
 今朝、香穂子が音楽準備室で見つけたものは、外国の切手が貼られた一通の手紙だった。
 ちょうどひと月ほど前に、金澤が異国の地へ旅立つと噂が流れたことがある。どこでどういう力が動いたのか、その噂はすぐに立ち消えになった。
 だが、金澤の机の上に置かれた何通もの手紙……外国語で書かれた宛名も中身も香穂子には読めなかったが、それらは、例の噂が本当だと思うには十分なものだった。
 その噂について、金澤からの話は一度もない。まだ迷っているのかもしれないし、断ったから話す必要が無いと思っているのかもしれない。
 ただ、今もなお、手紙が定期的に届いていると知った香穂子は、読めないのを承知で手を伸ばした。
 辞書を引けば自分にもわかるかもしれないと思ってしまった。それに、いざとなれば誰か語学が堪能な人間にお願いしてもいい。あの噂は本当だったのか、どうしても真実が知りたい。その思いだけだった。
 けれど……いざ手にしてみると、手紙の内容などどうでもいいことのように思えた。
 真実を知ったところでどうなるのだろう。香穂子は、金澤という男は、その時が来たら黙って行ってしまうような気がしてならなかった。それは明日だろうと、百年先だろうとも。
 そこまで考えて、香穂子はそっとため息をつく。そしてすぐに、何事かを決心したかのように息を吸い、隣で眠る金澤の手を握り、言った。
「ねえ先生、私を離さないで。ずっとずっと傍にいて。世界のどこにでも私を連れていって」
 小さな声が部屋に落ちる。
 返事などなかった。金澤は目を覚ますこともなく、寝息のリズムが変わることもなかった。
 次に目を覚ました時も、きっと同じことの繰り返し。そんなことがわからないほど子供ではない。
 瞼が重い。
 まだ朝までには時間がたくさんある。
 今度はもう少し長く眠っていたいと、香穂子は金澤の隣で瞼を閉じる。そして今度は絶対に幸せな夢を見ると決めた。途中で目覚めたりなんかしない。夢の中で、たくさん愛してるって言ってもらうんだ。
 ゆっくりと視界が暗闇に紛れてゆく。
 想像の世界は楽しい。
 夢の中の先生は、私を抱きしめる。キスしてしまえそうなほど近づいたくちびるから、伝わる吐息。
 先生のくちびるがそっと開いて、「あ」の形をつくる。そして先生は愛してるって言うの。煙草で少し掠れた声で、 つまらなそうに。きっとそう。夢だけど、それでもいいの。
 香穂子は握っていた金澤の手をそっと放した。



「香穂子」
 え?
 驚く香穂子が慌てて眼を開けると、そこには怒ったような顔をした金澤がいた。
 その顔が、だんだん顔が近づいてくる。
 さっき香穂子が想像していたとおり、そのまんま。
 まるで、キスしてしまえそうなほど近づいたくちびるから、伝わる吐息。
「せ、先生?」
 相変わらず返事などない。
 ベッドを軋ませ、覆いかぶさってくる金澤は香穂子の上に闇を作る。香穂子はその闇の中で確かに聞いた。
「そんな顔すんな」
 金澤は言った。
「バカ野郎」
 金澤は確かにそう言った。
 これも香穂子が想像したとおり、煙草で少し掠れた声で、つまらなそうに。

「離すかよ」

 けれど、香穂子にはそれが妙なる声に聞こえていた。



 ――fin


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